「君は、何が美味しいかという感覚すら、他人に委ねてないか?」
数年前、万年筆を買った。
万年筆は一本一本書き味に個体差がある。だから、選ぶのが難しいということは聞いていた。個人の書き方に合わせて、ペン先を調整してくれる万年筆屋さんがあると伺い、せっかくなのでそこで買いたいと思い、足を運んだ。
狭い部屋に万年筆屋さんは居た。すぐ手にとって触れられる万年筆のケースを前に、「いらっしゃい」と彼は言った。
「万年筆がほしいのですが、どの万年筆が良いかわかりません、オススメを教えてほしいのですが」と私は言った。
万年筆には様々な重さ、太さ、字幅がある。はじめて購入する者にとってどれを選べばいいかわからない。万年筆を専門に扱う専門家だからこそ知っている定番を推薦してくれるのだろうと思って聞いたのであった。しかし、意外な返答が来た。
「オススメはありません」
「なぜですか?」
「それぞれの個人が持っている感覚があるから。私にとってこれが良いということは言えるのだけど、あなたにとってこれが良いというのはあなたのことがわからないから言えない。」
「君は、何が美味しいかという感覚を他人に委ねてない?」
「なにか食べるとき、これがオススメといってもおいしくないことがあるでしょう。結局個人の味覚は自分じゃないとわからない。自分の感覚は自分で見つけないとダメ。」
「最近、食べ物でもランキングやポイントの数でレストランを選ぶ人が多い。それで、インターネットで調べて、このレストランではこれがオススメでこれを食べておけば失敗はないなんて、自分が食べるメニューまでも他人まかせ。怖いのは、そんな風に選んでいると、だんだんと、ランキングがないと買えなくなる。自分の感覚が無くなる。」
考えてもみなかったことだった。自分で選んでいたつもりでも、もしかしたら、他人の感覚に委ねていた部分もあったのかもしれない。
「確かにそうですが、私ははじめての万年筆を買おうと思っていて、何か基準がないと買えないなと思ったのですが」と言った。
「それでは、今日は買わない方がいい。今日は、じっくり触って、どれがいいか自分で考えてご覧。どんな場面でどれくらいの頻度で万年筆を使いたいか、使う場面を考えて自分なりに良い合うものを探してみて。それが明確にできればアドバイスはできるから」
「普通の文具店はガラスケースに入れて、わざわざ出してもらわないと手に触れることはできない。だから、お客さんは、試してみたいけれど、ハードルが高いでしょう。でも、うちの店はここに出してある種類、どれも触って納得するまで書いてもらっていい。何時間でも試してみてください。」
それから、様々なペンを触らせてもらった。自分の感覚でどのペンがいいか、考えた。そもそも、万年筆がほしいと思ったのだけれど、どんな万年筆がほしいとは明確に考えてきたわけではなかった。だから、その日は、すぐには結論が出せなかった。
「どれがいいかわかりません」と正直にいった
「最初は誰でもそう。感覚は自分で作っていくものだから。」
「イチローはバットにこだわりがあるでしょう。でもあれは、バットという道具を繊細に使いこなす感覚を身に付けているからこそのこだわりだよ。アマチュア野球選手はそこまでこだわりません。だって、そんな違いがわかるほどの感覚が無いから。小さな違いに気づくには練習が必要なの。」
「万年筆も一緒だよ。特にこだわりがないのであれば、安い万年筆を買えばいいから。自分の書くという感覚が鍛えられれば、だんだんと良い物が欲しくなる。その時に良品を買えばいいよ。」
「じっくり考えておいで。また来てください。」
そして、その日は店を出た。来週の再来を予約して。
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