何かにつける形容詞は、結局は他者との比較でしか判断できないのではないかという話です。
例えば、「これは大きい茶碗である」「これは美しい茶碗である」「これは重い鉄瓶である」といったとき、そのものが大きいかどうか、美しいかどうか、重いかどうか、何かと比較しなければ分からないものなのです。
何かと比較しなければ、そのものを判断する形容詞がつけられないことに、人間の悩みの根源があるのではと考えています。
沢山、少し、美しい、醜い、大きい、小さい、重い、軽い、優れている、劣っている、こんな形容詞を自分にもつけたくなることがあります。でも、それは何と比較するかによって、どっちにも捉えられることなのです。そして人間の性質は、どんな他者と比較するかを自然に頭の中でやってしまうのだと思います。
比較する他者を広く見れば、どんなに優れていたとしても、さらに優れた人はいます。どんなに少ししかなくても、もっと少ししかない人もいます。
本当にそうなの?例えば、ビルゲイツはもっともお金を沢山持っているからそれ以上持っている人はいないのでは?という反論があったとしても、過去歴史を見れば、もっとお金を持った人もいるはずです。
何かに落ち込むとき、きっと自分の知っている見えている範囲の何かと比較して自分のことを形容詞をつけているはずです。そんなときは、意図的に比較の対象を広げた方が良いと思うのです。
結局、形容詞は相対的なもので、うまくいっているときにも、うまくいっていないときにも、元気な時にも、気落ちする時にも、自分につけたその形容詞は比較でしかない、広く見ればどっちにも捉えられると思えば、慢心せず、落ち込まず気持ちが楽になるのではないでしょうか。
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