くらしのちえ

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セネカの言い訳から見えてくる人物像「幸福な人生について」

セネカの「生の短さについて」を愛読している。毎年一度は読み直す。

 

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しかし、同書に収められた、2編「心の平静について」、「幸福な人生について」については読んでなかった。どうにもとっつきにくい印象があり、途中で読んでやめるということを繰り返し最後まで読まずじまいだったのである。

 

時間のある時に、一回全部読んでみようと思った。ローマ帝政初期の時代背景、人物、その当時の風習など、一読してもよくわからず、読むのをやめたくなる文章をこらえて全部読む。そうすると、セネカの「生の短さについて」だけ読んではわからないセネカ像が見えて来た。

 

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「幸福な人生について」は、徳と富の関係のついて、セネカの言い訳が実に面白い。

 

セネカは、当時の政治家であり、権力者であった。執政官補佐となり、ネロの後見として政権を握っていた。つまり、莫大の財産を持っていたのである。

 

「生の短さについて」を読むと、お金を持つ財産家を非難し、豪華な食卓でパーティーをするものを非難している。その通りに読んでしまうと、セネカは貧相な生活をしていたかに思ってしまう。しかし、実際は自らが言っていることと、やっていることは違うのである。

 

「お前の話すことと、実際の生活とは別々ではないか」と君はいうだろうとセネカは語る。しかし、「自分がどのように生活しているかではなくて、自分がどのように生活しなければならぬか」を語っているのだとセネカは、言い訳をする。

 

「やがてできるようになれば、私も正しい生き方をしたい」と自らの希望を語るセネカに、セネカも人間くさい面があった。「人生の短さについて」では見えなかった、人間としてのセネカの弱みが垣間見れる。親近感がわく。

 

その後読み進めていくと、セネカの持つ財産の割り切り方がわかる。 あったら便利だが、なくなったとしても、自分は不幸にならない。徳を持った生き方をしていれば、付加されることがある富や快楽について、それを拒む必要はなく、受入れようという、おおらかな考え方なのである。

 

「たとえば、農作物のために耕された畑地において、何かの草花が作物の間に生える。しかし、たとえこの小さな植物が人の目を楽しませてくれても、その植物のためにあれだけ大きな労力がついやされたのではない。種をまく人には別の目的があり、これは偶々起こったことに過ぎない。それと同じように快楽は徳の本給でもなく、動機でもなく、徳の付加給に過ぎない。徳が快を与えてくれるから徳を喜ぶのではなく、徳を喜べば、徳もまた快を与えてくれるのである。」

 

こんな風に、セネカの思想と自分の生活との折り合いをつけていることが面白い。人間くさい一面を知り、より親近感が湧くようになった。

 

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

 

 

 

 


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