昨日の記事でのこと。
この写真から、これは何であろうかと問うた。
「これは皿である」
この写真には真ん中に、「皿」が乗っている。だから、「これは皿である」という答えは正解である。「皿」は言葉の概念である。「皿」にあてはまるものはこの世にはゴマンとある。頭のなかにある「皿」という概念との一致をもって、認識をする。
この写真だけでは、サイズ感はわからない。したがって、「小皿」、「中皿」、「大皿」と書いても、差支えはない。これらの派生した回答はすべて正解である。
「これは、祖母がくれた取り皿である」
その「皿」を所有し、使用することで概念の「皿」ではなくなる。 その「皿」は、祖母が所有していたもので、それを孫が貰って、現在使用している。
そのものが、どこから来て、どう使っているかを言える。普段は「取り皿」として使っている。たくさんの料理を並べ、その一つ一つを手元に取るための「取り皿」が食卓に並ぶ。
こうして、「皿」の概念から一歩飛び出し、そのものがどこから来て何に使っているかを言えるのは、所有しているからこそである。
「これは小鹿田焼である」
焼き物に詳しい人は、この「皿」が作られた産地をいうことが出来るであろう。特徴的な波のような模様があり、全体の色をみたことがあって、知っている人は「小鹿田焼」とわかる。
小鹿田焼にもさまざまなバリエーションがあるが、色、形、材質感、そういったものから一定の傾向を見出し、類似点を多く見ることで、「小鹿田焼」を特定するのである。
「これは小鹿田焼刷毛目小皿である」
小鹿田焼について、より多く知った人は、そのつくりのプロセスについても把握している。「皿」の表面につけられた模様は「刷毛目」というものであり、刷毛を使って波の文様を作る。小鹿田焼には、これ以外にもバリエーションがある。小鹿田焼は飛び鉋が有名であり、そのきれいな文様が頭に浮かぶ。
小鹿田焼の生産をみたことがある人は、その現場も思い浮かべることになるだろう。山から運んだ陶石を臼で細かくするため、川の水を使って、ガタンゴトンと砕く風景を思い浮かべる。
職人がろくろを一定のリズムで回しながら、刷毛目をつける姿も想像できる。あるいは、刷毛目だけではなく、飛び鉋の文様を付ける職人の手の動きのリズムのよさに見惚れたことを思い出すだろう。
そして、鉋は腕時計のゼンマイバネを分解したもので作ったものだと職人さんから聞いたトリビアも思い出すかもしれない。
価値は見るものが与える
このように「皿」という概念から、見る人によってさまざまな深さの意味を与えることができるのである。
今回、たまたまみていたNHK WorldのCeramic Treasuresという番組。ここで小鹿田焼が取り上げられていて、家にあった、「祖母がくれた取り皿」から、「祖母がくれた小鹿田焼の刷毛目取り皿」とその意味的な価値が変わった。
ものは何も変わっていない。家に昔からあるものである。しかし、そのものを見る人が変わった(所有し、知識をつけた)ことで、そのものの意味や価値が変わったのである。
「ものに価値はない。見る人が価値を与える。」
そんなことを思い浮かべる事ができた出来事であった。
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